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みんなの声

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投稿文章

2012年2月13日

М子の旅立ち-放射能から逃れて

牧野みどり

東京で暮していた 姪のМ子が、昨日、台湾にむけて旅だった。

昨年末、36歳にして授かった子どものいのちを放射能被害から守るための移住である。彼女の住まいはいわゆる「ホットスポット」のある地域だ。子どもの父親は台湾 で仕事をしていたこともあり、当時の友人たちの助けを得て移住後の住まいや仕事の目途があるとは言え、大きな決断だったろう。

旅立ちを前にして送られてきたメールには「自分で決めたことだけれど、荷造りをしながら涙がとまらなかった。子どもの成長を大好きな人たちに見てもらえないのは寂しい。放射能のことがなかったらこんな思いをしなくて済んだのに、これも人生なんだろうけれど」とあり、また、自分達が「脱出」することに対しての罪悪感も記してあった。

彼女の子ども時代の日々は私たち夫婦にとっても身近なものだった。どのような選択も彼女の選んだ道ならば応援していこうと思いつつ、寂しさとともに何ともやりきれない思いがある。

遠く離れ住むことに、ではない。今、М子のように小さな子どもを持つ日本中の人たち皆なに、安心して子育て出来る状況を作ってあげられないことに対しての、私たち世代が持つ責任の大きさが思われてならないのだ。

だいぶ前になるが、第五福竜丸の乗組員大石又七さんのお話をうかがったことがある。以来、国策としてどのように原発を導入して来たのか、自分なりに関心も持ち、少しは学んできたつもりだったけれど、それは「知識」を得たことでしかなかったことに我ながら愕然とする。私自身の生活の何一つも変えて来なかったのだから。

国策として「脱原発」をめざしていかなければならないし、それを本ものにするためにも、自分の生き方や生活のあり方の、何をどう変えられるのかを自分自身に問うていくこと、それが子どもたちやそのまた子どもたちの世代への私の償いの一歩である。

M子のメールは「離れ住んでも、故郷のことをいっぱい、いっぱい子どもに教え伝えます」と締めくくられていた。

2011年9月17日

7・2 みんなで語り合いませんか「震災体験から 地域・学校・子どもたちを」の発言から(3)

震災関連死とか、震災で病休に入る先生の話ですが、もうすでに出ていると私は思っています。
一昨日、県南の沿岸部のある学校の事務職員の方が急になくなりました。被災校です。

心筋梗塞で急に朝倒れた。
自宅を出る前ということです。

その知り合いの先生にさっき電話して聞いたら、特に大変で、学校に何回も泊まり込んだりということはなかった方のようですが、過労も原因かといえば原因じゃないかなあと職場では言っているということでした。

一方で、教員以外でも、仙塩の地域の方で、社会福祉協議会のボランテイアセンターに関わっている方が突然亡くなったという話も耳にしています。

昨日、ある方に聞いたんですが、多賀城方面で、仮設に入ったけれども、電気代、エアコン代を出せないためにエアコンをつけないでいて、熱中症で亡くなった方もいる。

だから、そんな話を聞くと、震災関連死は、見えないところでたくさんあると。
そういう方々を私たち、情報をちゃんとつかんで対策を打たないとだめかなという気がしています。

他にも、教員で言えば、本当に避難のさせ方の対応で参ってしまっている先生もいます。
これは、大川小学校だけではありません。

他にも、一時的に参ってしまったというような管理職がいたり、先生がいたりしています。
先ほど兵庫の石本さんがお話されていましたが、先日、兵庫の阪神大震災を経験された小川先生の話を宮城県の3か所で教員向けにやったのです。

そこでは、やはり百日ぐらい経って倒れる先生が続出し、また、2・3年後に震災うつ病になった先生も沢山いたんだよというお話を伺いました。

教師に限らず宮城の人たちは、みんなそういう危険性を持ちながらやっていくということです。
先日も組合では「交代で休もう」というファックスニュースを流したんですが、そういうメッセージを発信していくことが大事かなと。

それも、教師自身のためだけでなくて、子どもたちのためにも。そんな気がしています。

(Sさん)

2011年9月16日

7・2 みんなで語り合いませんか「震災体験から 地域・学校・子どもたちを」の発言から(2)

元教員で、退職して30年近くになります。
多分ここで最年長だと思うのです。

86歳になりまして、本当に何にもできなくなってからこの災害に遭って、つくづく年寄りが生きているそのことさえも、なんか灯油使ったり電気使ったり水使ったり、年寄りはもう役に立たないのに生きているのだという思いでずっといたんです。

私は、戦争中に学校出て、戦争中から教員して、戦後、戦争中のあの被害から立ち上がろうとして教育やってきたのに、こんな日本つくってきたということに、ものすごく落ち込んだんです。

今、石巻の状況とかたくさん聞きましたけど、私たちは何ができるのか、何をしたらいいのか。
私たちは、戦争の時に、空襲から逃げてきた人たちをあったかく迎えることができなかったんですよ。

ススだらけで来た人たちにも分けてあげる肌着もないし、自分たちの暮らし脅かされるようなそういう気持ちだったし、疎開した子どもたちにもあったかく迎えることができなかった。

でも、今の日本は、いっぱい欠陥があるにしても、被災した子どもたちをあったかく迎えようとか、迎えなければならないとか、弱ってるお年寄りは助けなくちゃないとか、そういう気持ちもあるし、分けてあげるものもある。

それで、今、私は、戦争中に(肉親に)戦死されたり母を戦争で亡くした、その心の傷っていうのは、もう70年たっても治らないし、誰にも聞いてもらったことも無いんですけれども、やっぱり今、一人ずつの人たちの気持ちを十分に聞いて、その人たちの気持ちが何を必要なのかを十分にくみ取りながら、一ミリでも一歩でも進むためにね、何ができるのかっていうことを、ここで、何かを学んで、私も明日から生きる意味があるかなあと思って暮らしたいです。

(Hさん)

2011年9月1日

7・2 みんなで語り合いませんか「震災体験から 地域・学校・子どもたちを」の発言から(1)

学童保育の方で支援に関わっています。
子どもの生活に近い場面からお話したいと思います。

仙台と被災のひどいところとでは本当に生活に差がついています。
仙台にいると分かりにくいのですが、おなかをすかせている子どもたちがたくさんいます。

七ヶ浜では、学童保育の活動場所に子どもたちが学校から帰ってくると「おなかがすいた。」と言います。
聞いたところでは、3年生以上には給食が出ているのですが、1、2年生には出ていないということでした。

授業の方は、時間数が足りなくなるというので、午前中に40分短縮授業で休み時間5分で5時間授業して、1、2年生は食べずに帰ります。ですからおなかがすいてしまっている。

あるところでは、学校が高台にあって、子どもたちは被災のひどい方向に集団下校をしているのですが、並んで待って家に帰るまでにどのくらいの時間がかかるのか。

1、2年生はおなかがすききって倒れないのかと心配をしていました。
今回7月1日から簡易給食が、2年生にも出るということになりました。

子どもの話だと「おやつだよ」ということで、ドーナツとデザートのようなもので、帰り着くまでの補食としては十分だと思うのですが、給食とは言えないと思いました。

七ヶ浜の学童は流されていないので、外遊びもでき楽しく過ごすことができています。
石巻については、学童そのもの、学校そのものが流されてしまっているのでとても厳しい状況にあります。

指導員が犠牲になったり孤児になってしまったお子さんがいたりということで、まだまだ自分の口から話せる状況になっていないということでした。

今、とても心配しているのは夏休みのことです。
石巻の学童保育は朝の8時から夕方6時までの開設ですが、夏休みのプログラムをどうするか悩んでいました。

校庭には仮設が入ったり、これから仮設校舎が建つところがあり、自衛隊が常駐しているところもありました。
校庭で遊べないところがほとんどです。

プールも使えません。
そして、おやつが出ません。

避難所から通っているお子さんは、まだお弁当が作れる状況にない。
コンビニも開店していないのでお弁当を買って持たせることができない。

できたとしても経済的に厳しいだろうと。
おやつがないのでおやつで補食させることができない。

被災のひどいところほど親の会を作るのが困難です。
お弁当を持ってくることができる子どももいるので、そこに一律にお弁当を出すかどうかということも簡単な話ではないのです。

今、本当におなかをすかせている子どもがいるということを知っていただきたい。
もう一つ皆さんに伝えたいのは、もう少し時間がたって、だんだん整備されたところから普通の生活に戻っていったときに、いろいろな事情でなかなかお弁当を持ってこられない子どもたちに、被災当時と同じように考えてもらえるのか。

子どもたちの場合も、単純な被災でなく、2次的3次的な被害になっていったとき、どこまでみんなで応援してあげられるのか、すごく気がかりになっています。

(Iさん)

2011年8月23日

8月3日宮城教育研究センターの「山びこ学校」を読む講座に参加して

渡部やす子

「山びこ学校」、なんと懐かしい響きを持つ言葉でしょう。
学生時代に読んで、中学生ぐらいの子どもが深刻な作文を書くなあぐらいにしか思わなかったのですが、それを書かせる教師の仕事が終わった今、再び向き合う機会が得られました。

田中武雄さんは、この本が生まれた背景と無着成恭さんをめぐるさまざまな問題を資料や映像を織り交ぜながら詳しく話され、興味津々で聞き入りました。

ご一緒した浅井さんとも「現場の先生たちにも聞かせたかったね」と話し合いました。
残念ながら具体的な作文の中身を話し合う時間が足りなかったので、次回かいつか日を改めてまた読みあえたらと思いました。

そして、「山びこ学校」が現代の私たちに語りかけるものについても意見の交換ができたらと思います。
ところで先日の最初の話題は「いつどのように山びこ学校と出合ったか」でしたね。

私の場合は、サークルの先輩が「無着成恭のすごさは」「山びこ学校の限界は」と口角泡を飛ばして議論しているのを聞いてちんぷんかんぷん、そこで本屋で買って読んで、冒頭のお粗末な感想を抱いてそれっきりといったところです(恥ずかしいので黙っていました)。

無着さんに関してはさまざまな評価がなされているようですが、議論の数だけすごい人なのだと思います。彼が提起している問題をこれからも考えていきたいと思います。現場の教師を誘いながら。

8月14日

2011年7月13日

100日過ぎて

熊谷富代子

震災直後から、30年も前の神奈川の同僚などから手紙やメールが届き始めた。

被害の状況をニュースで見て、私の実家が気仙沼ということを思い出してくれて、安否の確認やお見舞いの言葉を届けてくれたのだった。

電話が通じないし、私は携帯電話を持たないので、最初はハガキが唯一の連絡手段だった。

神奈川の友人たちは、一度きりの見舞いの言葉を送ってくれたのではなく、仕事の区切りがついたらボランテイアに行こうとか、不足していた品々を送ってくれたりとか、疲れもたまっただろうから、おいしいお茶を飲んで甘いものでも食べて元気を出せとか、繰り返し励ましの心と言葉を届けてくれている。

自分ならこんなことができただろうかと、今までの自分の心の働かせ方の貧しさを反省もさせられた。

みんなだって、何もないわけではないのだ。
それぞれ、自分の心になにか重荷を抱えながら、こうして励ましてくれているのだ。

そんな友人たちに励まされると頑張る気力が湧いてくる。
そんな友人たちに、今、気仙沼はこんなだよというメールを私は時々送っている。

6月。友人からのメールに私は次のような返信を送った。

お元気ですか。お母さんの体調と自分の体調と、気遣いしなければならないことが重なってお疲れのことと思います。

私はというと、今週は、仙台での仕事?が続いたのと、やはり少し心身共にお疲れモードになって、気仙沼行きを1週間休みました。

先週は、八戸に避難した友人が気仙沼での手続きのため私の実家に泊まり、高校以来の話をして寝不足の疲れも。

朝は小学生を送って、午後は幼稚園を迎えに行って、間はちょっとお掃除、農作業の手伝いなど、猫の手よりちょっとましな手伝いを気仙沼ではしています。

なにしろ人でがない。
さりとてボランテイアの方にお願いできる仕事でもない。

そういう「あうん」の呼吸で手を出せるところに手を出し、実家の被災者たちがダウンしないようにと、私なりに気遣い、気疲れも積もってきたなあというところです。

今日は、区役所に行って高速道路無料の手続きをしてきました。
ちょっと助かります。

気仙沼の水道の方は、まだそのまま飲めないのですが、とにかく助かります。
飲み水は、今のところペットボトルと給水車に頼っています。

電話は、線をつなぐ電柱のような柱が実家の庭にたちました。
線はまだつながっていませんが、もうすぐだなあと、その柱を見てうれしい気持ちになっています。

仙台の我が家のほうは、工事が混んでいるので、お盆過ぎに作業開始と打ち合わせができました。

私の団地は、今回結構被害の程度が大きい住宅が多く、無傷のところはほとんどありません。
小学校も使えず、中学校との併設で新学期をスタートしました。

気仙沼の方は、やっと、個人の住宅や、農地の瓦礫の片付けに手がつけられはじめ、瓦礫の山の分別ができてきました。

その山を運ぶ先がないのが今の問題のようです。
仮設住宅は、小中学校の校庭目一杯に建てられ、外での部活はおろか体育の授業も休み時間の遊びもできない状況です。

これが2年3年、下手をすれば5年も続くのかと思うと、子どもたちはどうなるのかと不安になります。

それなのに、仙台では、学力向上を目指し学力テストも市独自で実施するというのです。

教育関係者の実生活者との意識のずれの大きさに暗澹たる思いに駆られます。
震災への対応だけでも限界的な状況なのにこの学校の非常識にも心が痛み、言葉がありません。

口を開けば愚痴になる、それもつらいので、今日できることを、今日、しようと思ったことを、とにかくやりとげる。

汗をかいて今日も頑張って終わったと、自分で確認、納得する。
それが一番かな。

とにかく、体力を維持し、毎日、今日することがあってそれをやりとげていく。
それが、未来を思うこと、希望につながるのかなと思う日々です。

地震、津波、放射能、おまけにヒ素の流出。
踏んだりけったりの被災地ですが、地元の人たちは、なぜか明るく強いのです。

何なのでしょう。
疲れつつ、気仙沼に行って元気と勇気をもらってきている私です。

元気でいます。
みなさんも頑張ってください。
そして、いざという時の為の備えを必ずしておいてください。

2011年7月7日

2011年7月2日の集まりには、北は北海道から、西は兵庫まで。全国から参加者がありました。当日、フロアから発言してくださった兵庫の小学校教師石本日和子さんから、さっそく集まりの感想と、被災地を訪ねての感想が寄せられましたので、ご紹介します。

石本日和子

集会に参加された皆様。
とりわけ、子ども達のそばで、命と生活を支えてくださっている先生がた本当に、ありがとうございました。

どの発言も子ども達とともに、被災者として生きる教師の覚悟が感じられて心を打たれました。

発言に人の真実がこもっている迫力のある集会でした。

人々の個別の語りを聴くところから始めることの大切さを改めて思いました。

どうぞ、心からの感謝をお伝えください。
そして、ご健康に注意なさって下さい。

用心して、自分の体の声も聴いてほしいと
そんな時ではないと言われるのは覚悟で申し上げます。

さて、日曜日(7月3日)に、山下第2小学校と中浜小学校をみせて頂き、浜通りを通って仙台空港から帰りました。

以下は、外から眺めたものの感想でしかありませんが
書いてみようと思って書きました。

もし、現地の先生がたが読まれて不愉快な思いをされたらごめんなさい。

圧倒的な喪失感、虚無感に打ちのめされました。

何にもないのです。

タクシーの運転手さんの話では
自衛隊さんが、片づけてくださったと言うことでした。
しかし、降りてみると
そこここに、おしゃれなハイヒールだったり
ぬいぐるみだったりが落ちていて
確かに、ここに、生活があったのだと分かるのです。

小学校は、曲がりくねり、捨てられていました。

山元町というところは、いちご農家で裕福だった所だそうです。
子ども達の人数も少なく
小学校みんなが仲良く、学習にも熱心だったとタクシーの運転手さんは話してくれました。
事実
校舎は、鉄筋ですが、内装は、本当に素敵な木のつくりで
屋根は瓦ぶきです。
西宮の学校よりもずっと親密で丁寧な地域の小学校だったのだと
思いました。

だからこそ
小学校の先生は、
1年生の子どもたちを励まし
6年生の子どもたちを頼りにして
5キロもある道を避難させられたのだと実感しました。

津波に追いかけられながら
どんなに怖くて
大変だったことでしょう。
しかし、普段から絆のある小学校で
その力がはぐくまれていたからこそ、
無事に避難できたのだと実感しました。

近くの自動車学校の生徒や教員は
壊滅的だったと聴きました。

老人ホームの職員も
老人をかかえるようにしながら
津波に飲み込まれた人もいたと聴きました。

むごいことです。

さらに、
裕福だったイチゴ農家みなさんは
(残っている家の土台を見ると、大きくて立派な家が多かったです)
収穫の時を、流してしまいました。

手に入るべきお金が入らず
残ったのは借金だけで

しかも、畑には海水が流れ込み
仕事の目途が立ちません。
生活が成り立たない荒野に投げ出されているのです。

宮城の先生の話では、
お弁当を持ってこられない子が出ているそうです。

アメリカ軍は、仙台空港だけを復旧して去りました。
自衛隊は、津波の後片付けをして去りました。

世論は、原発に向いています(それも、充分ではありませんが)

津波を生きのびた人々が捨てられています。

ひょっとすると、政策的に捨て去られているのかもしれません。

そして、土地や漁業権を放棄せざるをえない条件を作り出し
TPPで、一気に農業団地や、漁業工場を作る復興を押し付ける気なのかもしれません。

私に、何ができるのか考えています。

私は、瓦礫の撤去やドロ運びにはあまり役に立ちません。

でも
もし、私の読み語りや
たのしいゲームや
小川さんと一緒なら、漫才も出来ちゃったりする
お笑いを生かせる場があるのなら
役立てて頂きたいのです。

広大な虚空の中には
人の死を悼む花すらありませんでした。

ゴミになるからと規制がかかっているのかもしれませんが
献花も無いという事実は
やりきれない思いを増幅しました。

それだからこそ
個別の話をうかがいながら
共に悼むことから、私のささやかな支援を始めたいと
思いました。

勝手な感想でごめんなさい。

現地で
私が活かされることがあれば
喜んで参ります。

2011年7月6日

センター通信62号を全部読みました

織田紀代子(アメリカ在中)

(直接お話したことはありませんが)以前遠藤惟也先生と白川小学校でオペレッタをやっておられた宍戸さん、角田小学校の佐々木さんの原稿などを読み、遠藤先生を思い出しました。

人は亡くなってもその人の仕事や思いは、他の人の中に生きているということに感動しました。
先輩の岡田晶子さん、江島さんもお元気で活躍なさっているのですね。

学生時代を思い出し、懐かしくなりました。
震災後、宮城県とりわけ子供たちの置かれている状況はどうなっているのでしょうか。

この夏、夫のジェフが宮城県に3週間ほど滞在する予定です。
石巻のボランティア団体と連絡を取ったそうで、そちらでしばらくボランティアをする予定です。

アメリカではだんだん大震災への関心が薄れてきていたり、大震災や原発事故の報道に対して疑問を感じることも多く、自分ができることはないかと考えたようです。

自分の眼で見たり調べたり、仙台の友人たちを通し、いろいろな人と会ってお話を聞かせてもらったりして、それをアメリカに戻ってから大学などで話したり、本にまとめたいと話しています。

夫にとっても仙台は青春時代を過ごし、いろいろな人に支えてもらった思い入れのある土地です。
英語と日本語ができ、宮城県に思いやつながりのある夫だからできることも何かあるのではないか、何かお役にたてることがあるのではないかと思うので、私も応援したいと思っています。

夏休み、センターはあまりいろいろなイベントなどはないのでしょうか。
もし宮城県の先生たちが集まる座談会のようなものがあれば、教えていただけますか。

仙台には7月18日から24日までと8月2日から11日ごろまでいる予定です。
滞在先は上杉で、センターから歩いて行ける距離なので、仙台にいる間に一度ご挨拶に行くかもしれません。

私も行きたいですが、この夏は夫だけになると思います。
中森先生にもよろしくお伝え下さい。

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2011年6月9日

教師も子どもも普通の感情を普通に出せる場所に

佐藤よし子

「子どもも大変」という意見を先日この欄で読ませてもらいました。
子どもはまわりの状況や自分がひとからどう思われ扱われているかということにかけてはある意味で大人より敏感で、それゆえ傷つくことも多いということを私も数年間の教師生活で少しはわかってきました。

性格も関係すると思いますが。
私は四月に出産し、育児休業中の教師です。

二月から産前休暇に入り、家であの震災にあいました。
幸い私の勤める学校は、人的被害はありませんでしたが、同僚や仲間の教師たちの苦労は大変なものがあり、日々胸を痛めています。

メールを思いたったのは、前の職場でお世話になった先輩のK先生と今日偶然に出会い、話をしたことです。
私は風邪気味で病院に出かけ、Kさんは震災以来体調を崩して検査のため来院していたのでした。

お話を聞くと、Kさんは今回の震災で親しい人や教え子を何人か失くされたそうです。
それなのに、一人になったときでも泣くわけでもなく、お焼香に行っても、何か呆然として涙が出てこないというのです。

こんな自分は人からはどう見えるだろう。
遺族の方は、涙も見せない自分をどう思うだろう、胸はかきむしられるほど苦しいのに、感情が普通にわいてこない。

そのうちに夜眠れなくなり、呼吸も苦しくなったというのでした。
Kさんは、真面目で職場でも信頼の厚い方、新任の私などはどれだけ助けていただいたかわかりません。

その方が、そんな状態で苦しんでいるとは思ってもみませんでした。
休業中の自分の身を思うと後ろめたさを感じながら「先生、先生は今疲れているんだと思います。本当に悲しいときは涙も出ないと何かで読んだことがあります。震災はまだ起こったばかり。今はまだその渦中なんです。時間がきっと解決してくれます。」と言うのが精一杯でした。

慰めではなく、本心から出たことばです。
学校というただでさえ忙しい職場、被災したひとびとへのお世話、教え子の死…想像を超える事態に心身が適応しきれなくなった自分を責める苦しみがさらにKさんを追い込んでいるようでした。

短い時間のおしゃべりでしたが、「ありがとう、なんだか気が楽になったわ。」とKさんは言いました。職場では弱音を吐く暇もないとのことでした。

来年には私も戻る現場、学校が、教師も子どもも普通の感情を普通に出せる場所になっていることを願っています。
勝手な願いと知りつつ。

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2011年6月2日

子どももたいへんなんですね

N子(40代学童指導員)

「みんなの声」という欄があったので投稿します。
学童で仕事をしています。

子育てが一段落してから市の職員として働き始めました。
自分の子育てのときは夢中でしたが、毎日元気な子どもたちの相手をしながら、ときに大変なことはあっても、子ども相手の仕事はやっぱり楽しいなあと思う日々です。

一校目のそのときは、朝から晩まで忙しい先生たちの様子を毎日見ていました。
二校目から今の仕事です。

学童で仕事をしていて思うことは、子どもたちって結構ストレスかかえているんだなあということです。
二年生で、みんなが宿題をしているときに、テーブルに上がって騒ぐ子がいます。

「やめてよ」「じゃましないで」子どもたちが騒いでも聞いていません。
「T君、降りなさい」「宿題終わったの?」などと私たちが注意しても聞くものではありません。

「先生、T君ね、教室では立派にしてるんだよ」と教えてくれる子もいます。
「え? 本当?」 勉強があまり好きでない子にとって、教室はどんな場所なのでしょうね。

T君はじっとガマンの一日を過ごしているのではないでしょうか。
T君の困るところは激しやすくてけんかも多いところ。

しかも手が早くて相手の顔をパンチして鼻血を出させることもあります。
人懐こくていい子なんですけどね。

T君の両親は帰りが遅いので、6時までの延長組です。
お母さんがお迎えにくると、抱き会って喜ぶ姿からは、末っ子なのでちょっと甘えん坊なのかなぐらいで、お家での愛情は問題ないと思っていたのでしたが、そうでもないのです。

あるときお母さんが思いつめた顔で学童に来て、お願いがあるというのです。
この間は父親が迎えに来たのだが、友達とけんかして相手の子が鼻血を出したことを先生から聞いて家でひと悶着あった。

父親はTをひどく問い詰め、自分は夫を制するので大変だったので、子どもが何かしたときは、どうか父親には言わず自分にだけ話してくれと言うのでした。

また、息子の話だと相手の子が先に仕掛けてきたそうなのでその点もよろしくというのでした。
学童と先生方との話し合いの場は設けていますが、今年はまだ実施されていません。

しかし先日担任の先生が何かの用事で学童に見えたので、T君について少し話し合いました。
先生は、T君のお姉さんを受け持ったことがあり、家庭の事情もよく知っていました。

お父さんは気難しく、お母さんはひどく神経質なので、お姉さんもT君も家では気を使ってくらしているそうです。
子どもも大変なんですね。

せめて学校と学童で、T君が楽しいと感じ、満足するような授業や生活を心がけて見守っていくことになりました。
もうすぐ家庭訪問があるので、それが終わったらまた後で話し合うことになっています。

今は、学校や学童での様子をストレートに親に話せない時代なんでしょうね。
私は何でも言ってもらった方がいいという親でしたが・・・。

こんな「声」でも送っていいんでしょうか。

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2011年5月30日

写真室 花だより「森に咲く白い花」によせて

牧野 みどり

森羅万象、不思議にあふれているけれど、この緑の季節にこの白い花。コントラストのなんという見事さ。
そういえば春浅い季節には黄色の花が多く、萌黄色の芽吹きに溶け込んでいる。

庭先を彩ってくれた春の花が一段落するこの季節、雨の降る日もあまり好きではなかったし、なにか地味なさびしい季節と感じてきた。

でも、こんな緑濃い中に凛として咲く白い花々に魅せられて、この季節への思いが変わるよう。
その様のごとくに潔く、あるいは志高く生きるあの人・この人がふと思い出され、背筋を正される。

画面からは撮影した方の植物・自然への想いもひときわ伝わってくる。
雨模様の日「今日は天気が悪い」と言うことが多いが、畑にも庭にも雨をまつ日は多い。

3.11以来、大震災を人間のおごりへの「警告」とか、自然界からの「報復」とか語られることにも少し抵抗を感じる。
これってあまりに人間中心に過ぎないだろうか。

「森に咲く白い花」の美しさも、時に猛威をふるう地震や津波、どちらも自然の姿。
自然の一員としての生き方を見失っているのかも知れない私たち人間ではあるけれど、自然は人間がどうかなんて関係なく、自然の勝手にしているだけと思う。

今日は一日雨。
森の緑も一段と深まったことだろう。

六月を きれいな風の 吹くことよ 子規

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2011年2月24日

「特集 教育の現場はどうあればよいか」を読んで

勝然 たみ子

特集の中でも特に第1部の「座談会 若い教師 現場の今を語る」を興味深く一気に読みました。
教師としての喜びが学芸会の行事であったり、音楽の授業での合唱や単元のまとめとしての感想文であったりという発言がありました。

毎時間の何気ないごく自然の授業がドラマチックであったら私達教師はもとより子どもたちがどんなに幸せなことでしょうね。

それにしても帰る時刻が7時というのに驚いていたら、10時とはぶったまげてしまいました。
教師でない時間がほとんどないという生活はどんなものでしょうか。

退勤して一生活者として身の回りのことを何くれとなくしたり、趣味に生きたり、サークルの活動に参加したりといった具合にリセットしなかったら、朝の訪れすら新鮮なものではなくなるでしょう。

子どもたちに学校での喜びは何かを聞いたらどう答えるでしょうか。
特別支援学級(一人学級)での帰りの会で「よかったさがし」というのをやりました。

私としてはこんなことができるようになってよかったなどの発言を期待していたのですが児童は毎回「そうじをしてよかった」など、ほんの短い時間であっても友達と関わることができた場面を選びました。

しごく当然なことかもしれません。
もし座談会に出席された先生方のクラスの児童によかったさがしをさせたらきっと休み時間など友達と関わることができた場面を選ぶかもしれません。

子どもたちは学校で友達と関わる中でこそ成長するし、教師はその橋渡し役をする黒子のような役割を担っているのだと思います。

教師はそんなにがんばってはいけないと思っています。
昨年、私は次のような考え方に出会いました。

「子どもたちは我々教師と同じくらい有能で、愚かである。」
「教師が教材研究をすればするほど皮肉なことに子どもの分からなさが分からなくなる。」
「子ども同士で教え合う時、教える側は一方的に教えるわけではなく、分からない子どもにどうしてこうなるのなどと問い返されることにより、分かっていたつもりのことをあらためて深く考えることができる。」等々。

私にとって目から鱗、膝ポンの新鮮な考え方でした。
そして3学期のある日、次のような体験をしました。

ささやかなことですが衝撃でした。
私がその日、集団下校をする子どもたちを校庭に並ばせる係でした。

集団下校は集まるのに時間がかかったり、おしゃべりをしてだらだら並んだりすることが多いのです。
6年生は用事があるのでいませんでした。

私は「今日は5年生の皆さんがリーダーとして、並ばせて下さい。」と言いました。
ざわざわする中にも「並んで!」という声が聞こえました。

それで感じたままに、「先生みたいな人がいるんですね。」と言った所、その場が水を打ったようにしーんとしてしまったのです。

遅れてきた子どもたちもそれに習いました。
『どんぐりと山猫』のしーんとした場面のちょうど逆のような心理現象だったのかもしれません。

「先生みたい」という表現がそんなにも子どもたちの心に響くとは思いませんでした。
もっともっと子どもたちを大人扱いしなければと感じた1コマでした。

子どもたちに心地よいリズムと響きを持ったおもしろくてまじめな言葉たちを精選して届けるという作業を大切にしたいと近頃強く感じています。

ガンバリズムが横行する教育現場でよく耳にする無味乾燥な叱咤激励のことばに子どもたちは生きる希望を見いだしているのでしょうか。

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2011年2月2日

センター通信61号特集「学校の現場はどうあればよいか」を読んで

佐々木 大介

「自分もそうだったなあ。」という思いを持ちながら『座談会 若い教師 現場の今を語る』の若い教師の皆さんの話を読んでいました。

私の場合、教育とは無関係の仕事から角田小学校へ赴任となりました。
講師の経験もなく、若さだけが取り柄でした。

そんな私がいきなり授業などできるわけもなく、教材研究はどうすればよいのかということでさえわからなかったことを覚えています。

ただがむしゃらに目の前の仕事を片付けていくのにやっとの毎日でした。
当時の角田小は、遠藤惟也さんを中心に授業づくりや学級づくりをどうすればよいのかについて学校の中で学び合うことのできる職場でした。

同学年の先生方だけでなく、先輩方が「国語の授業するけど見に来ない?」「授業で私語が多い時集中させるのにどうしてる?」「こういう絵を描かせたんだけど、どうやってるの?」という子どもたちの指導にかかわる会話がたくさんありました。

毎日のように、いや毎時間のように困っていることばかりでしたから、先輩方の話は一言も聞き漏らさないようにしていました。

また学びだけでなく「今週○○小と野球の試合だ!」「放課後バドミントンしよう!」「阿武隈川の源流を見に行こう!」という遊びのイベントもあちこちでありました。

さて、今の職場の状況はどうなっているのでしょう。
放課後に教材研究の話をするどころか、同学年の先生以外とはほとんど話ができないのが当たり前です。

毎日のように6時間授業なのですから、同僚とゆっくり話す時間なんてありません。
仕事が追いつかなくなっているのは若い先生だけではなく、ベテランの先生も同じです。

経験があってもそれを生かせないほどの仕事量で、毎日の仕事を何とか片付けようとすると、とても若い先生方に声をかけるゆとりもないのです。

逆にベテランの先生ほど子どもや仕事の仕方の変化に体力が追いつかない状況もあるので、職員室ではなかなか教材研究や子どもの見方、指導法についての話は全くといっていいほどありません。

本来、先輩から後輩へ語り継がれていた「よりよい仕事をするための技や思想」がとぎれてしまっているような気がしています。

さらに若い先生方の困難さに輪をかけているのは、『初任であっても一人前の仕事を要求されること』と『職場に学び合いの同僚性ではなく個別化が働いていること』です。

私が初任の時と大きく違うのは、子どもたちと会うのが楽しみになるような話ができる時間的なものもそうですが、今は若手をあたたかく見守ってあげようという雰囲気がなくなっていると感じます。

何もよくわからない1年目から初任者研修にしばられ、しかも担任としては最低限以上の働きを求められます。
それは保護者からだけでなく、職場でも同様です。

教師として育てるには『まず手本をやってみせ、次に一緒にやってみて、そして一人でやらせてみて、よいところを認めてあげる』という教室で子どもたちを育てようとしていることと同じことが必要なことだと考えています。

初任研で指摘されてもわからないことはたくさんあります。
授業についても10人いたら10通りの見方があるはずです。

本当に正しいことはどんなことなのか?大切なことはどんなことなのか?それを今の現場で伝えていかなければいけないと今回の特集を読んで感じました。

これから若い教師はどんどん増えていきます。
これからの自分の役割として学び合いのある職員室づくりに力を注いでいきたいと考えています。

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2010年12月17日

熊谷さんへ
せっかく私の原稿に寄せて書いてくださったのに、パソコンが苦手で触りもせずに日をすごし、今日になりすみません。
英訳和訳ともほんとに楽しいですね。

熊谷さんの話、一つ一つに納得と感心です。
やっと英訳した詩がもとの日本語に戻らないのは私も発見でしたね。

「どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。」なんかは、私の英詩では絶対戻りませんでしたね。
それなのに、ビナードさんの英詩だと、素直に胸にすとんと落ちる、これも感動しました。

やっぱりことばの奥にある心をつかんでいるから(もちろん卓越した表現力と)なのだと思います。
それと、日本語英語にかかわらず、声に出して読むということが詩(ことば)の」世界に入る第一歩なのだと思った次第です。

「旅上」は私も好きです。
これは声に出して読まないのはもったいない詩ですね。

そして日本語でこそ読みたい詩の一つだと思います。
ところで何々の詩を翻訳しましたか。

今度お会いしたとき発表しあいましょう(そして笑いましょう)。
楽しみにしています。

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2010年10月23日

渡部やす子さんへ
アーサービナードの英訳詩を読んで書かれたことを読みました。同じ本を私も辞書を片手に読んでいます。
萩原朔太郎の「旅情」。

私の好きな詩です。
声に出して読むとなぜか気持ちがいいし旅へのあこがれをそそられるのです。

日本語と英語の併記なので、これなら英語でも読めるかも・・と思っていたら、つまずきました。
日本語と、調べた英単語の意味とが少しかみあわないように感じて前に進めなくなったのです。

<五月の朝のしののめ  うらわかくさのもえいずる心まかせに>の英訳は
<dewy shoots of grass unfurling on a may morning>でした。

私流に訳してみれば「露に濡れた若草が広がる5月の朝に」です。
若草のもえる草原のイメージは浮かびます。

でも、英語からは「うらわかくさ」や「しののめ」のイメージが浮かばないのです。
英訳から日本語に戻ろうとしても「うらわかくさ」や「しののめ」にはたどり着けない。

日本語をそのまま英語にしては英訳詩にならないでしょうが、「うらわかくさ」や「しののめ」が呼び起こす情景は鮮明です。

英訳詩を読み、日本語から「うらわかくさ」や「しののめ」のような言葉が消えかかっていることが気になり始めました。
そんなことを考えていたら「そうか!」、英訳詩を読んだから、もとの日本語の個性が意識できて、その響きを新鮮に感じるのかと気付きました。

「英訳は詩を外国へ旅立たせる交通手段になると同時に、日本の読者のためのもう一つの入口にもなる」とアーサーは書いています。

私もつまずきながら英訳詩を読む体験をして、新しい入口の前にたどりついたような気がしています。
英訳「旅情」も声に出して読むとより楽しい気分に浸れます。

静かな山道を英語と日本語で「旅情」をつぶやきながら歩く。
最近の散歩のひそかな楽しみです。

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2010年10月20日

「春日のつぶやき日記」が楽しみ。
6月16日のワカナちゃん。

この子の顔が浮かんでくるようだ。
やっぱり、子どもの姿、声が伝わってくるとうれしくなる。

そして、鮮さんの言葉がおもしろい。
どきりとさせられることばは、目が食い付いてしまう。

7月2日のSさんの「歌集」がいい。
短歌や俳句や川柳も時々紹介してもらうと、文化の香りを味わうことができる。

8月16日の詩もそうだ。
「教育文化」とは、とてつもなく幅広く奥が深い。

えてして、行き着くところ、学校教育や教育制度・行政へと傾きがちだが、忘れてならないのは、子どもたちの素顔。
子どもたちの今、そして、昔をどんどん書いて欲しい。

それが未来へつながるのだから。
さらに、「子どもの文化」「教師の文化」、「社会文化」への視点が「教育文化」の最も大事な基盤になる筈だと思う。

このページを開くのは、さまざまな人たち。
決して、教育に関わる層だけではない。

人として、優れた文化に触れることの大切さをどんどんこの日記でつぶやいて欲しい。

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